説明
てっきりと同題材の「万国名所図会」の切り抜きと思ってい有るが、調べてみたところ、案外、7点とも記録無し珍しい新発見。
米国新約克府高架鉄道真景
英国龍動府繁華之景
巴里繁盛之景
ロッキー山鉄道真景
歴山港之景
スイス堀割之景
上海之景
天明3年(1783)、江戸の司馬江漢が制作し初まった日本の銅版画は、23年後の文化3年(1806)に、京都で医学書『蘭療薬解』の挿絵として登場する。その後、天保期以降から京阪を中心とした幾多の名所・社寺を描出した小さい銅版画は、伝統の木版色刷の浮世絵とは趣きを異にし、泰西の微香をまとった素朴なお土産品として、絵葉書などに取って代わられる明治まで命脈を保った。
幕末に西洋から伝えられた銅版技術は、司馬江漢・亜欧堂田善・安田雷洲などが習得して作品化する一方、京阪では小型の風景銅版画などを量産して一般に流通させた。
明治時代になると、紙幣や切手が銅版で印刷され、それまでの印刷技術の主流であった木版に併せ、石版や銅版といった新しい印刷技法が伝わってきた。役所・学校・社寺・名所・温泉・商店・邸宅などを俯瞰して描いた銅版画には、建物、産業、風俗、植栽などが正確に描写されており、ビジュアルな記録資料としての価値も高い。
明治20年代には、写実的な描写表現ができる石版画は数多くの作品が制作される一方、銅版画は切手や紙幣などの緻密で大量の印刷用途や、一枚物の作品のほか、本の挿絵などにも用いられた。
それらの印刷物は、機械に頼れない時代に、職人が自身の手の能力を最大限引き上げた結果として、信じられないほど精緻を感じさせる。これらの手作りで生まれた印刷物は、それに囲まれて生活する人たちの心に刷り物へのあこがれを育み、出版や、印刷術で可能な表現を追求させるに十分な魅力を発揮した。
参考資料
明治初期の銅版彫刻画印刷
石井喜太郎著
京都1965年出版
折本1帖 ; 16cm
鋼版.銅版彫刻画印刷(長瀬長景,吐月館,松盛堂 銅刻).写真版以前の版画彫刻
備後の魁 : 名所国産の手引
長瀬忠 (次) 郎画, 村上吉兵衛校正
大阪松盛堂長瀬銅版製 明治16年序刊
兵庫
兵庫県下豪商名所独案内の魁:有馬武庫菟原
編集兼出版人垣貫與祐
閑釣人序
明治17年1月生見堂発行
大阪長瀬長景銅刻(欄外)
和装11×16cm、46丁
備後(広島)の魁
編輯人亀岡佐七郎
校正人村上吉兵衛
出版人垣貫一右衛門
山遊人序
明治17年2月大阪松盛堂長瀬銅版製(欄外)
和装13×18cm、41丁
明治17 年2 月の『備後の魁』刊記では、編輯人亀岡佐七郎、校正人村上吉兵衛、出版人垣貫一右衛門、大阪松盛堂長瀬銅版製(欄外)の名が挙げられている。また、同書山遊人の序では垣貫一右衛門が編者となった『浪花の魁』に触れられており、それと一連のものとして『備後の魁』が捉えられている。同書の家屋は、俯瞰の構図でかなり正確に描かれ、表現密度も高い。
また、明治18 年5 月の『浪華商工技芸名所智掾』では、編輯兼出版人亀岡佐七郎、校正人村上吉兵衛、検補人生見堂垣貫一右衛門の名が挙げられているが、備後の魁』では欄外に記名のあった大阪松盛堂長瀬銅版は確認できない。同書の家屋は、俯瞰気味のものと、低い視点のものが併用されているが、破綻なく正確に描かれ、表現密度も高い。
明治16 年の『美濃の魁』、同18 年の『商工函館の魁』では「生見堂垣貫一右衛門」と記しており、出版社として生見堂を営んでいた事が知られる。刊行に当たって編集や出版で複数回の協働を行った者には垣貫輿祐(明治15『商工技芸浪華の魁』、明治17年『兵庫県下有馬武庫菟原豪商名所独案内の魁』編輯兼出版人)、亀岡佐七郎(明治17 年『備後の魁』、明治18 年『商工函館の魁』)等がいる。
このうち、垣貫輿祐は『商工技芸浪華の魁』では「北区曽根崎新地壱丁目三十九番地同居」と記され、一右衛門と居住地が同じくする同姓者であり、その親族であろう。また、明治16 年『美濃の魁』には「出版人生見堂亀岡事垣貫一右衛門」とあり、亀岡は垣貫一右衛門の別姓と見られることから、亀岡佐七郎についても垣貫一右衛門との係累関係が推測される。亀岡佐七郎は『浪華商工技芸名所智掾』巻末に「銅版活版摺物製造処 大阪西区長堀白髪橋南詰亀岡佐七朗」として絵入の広告がある。
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